♯4/ピアソラ/転調の夜

 今、目の前で楽器練習をしている男である。
 8日午後、渋谷に出かけ、そこで、夜、一発演奏し、深夜0時頃帰宅し、まず一杯ビールなど呑んでいたが、私がお風呂から上がれば、居間でマーティンの音。
 
 彼が開いている譜面を見れば、シャープ4つのキーが目立つ。
 これはEのキーだが、私もピアノでは馴染みのあるキーのひとつ。しかし、自分が曲を作る時、Eの曲は・・・どうだろう・・・少ないだろうな。
 しかし、大学時代、或る講義を聴いていて、その教授がこんなことを言っていたことをよく想い出す。
「案外、人間の耳に心地よいのは、シャープやフラットが幾つかあるキーなのですね」
 個人的に私が好きだったり、馴染んできたキーは、FやDやB♭、GやE♭などあげられるが、A♭なども好みか。
 Eは、どこかひんやりした印象があり、Gの明るさや暖かみ、或いは開放感とは異なったイメージの音階で組み立てられているような気がする(ブルーズはまた別である)。

 今、チェリーが弾いている楽曲群、何曲もの楽曲たちは、どれも一曲の中で、少なくとも4回は転調している模様。正直、私の中で転調は珍しいことでも何でもないが、4回以上の転調が数小節単位にあるということは、かなり緊張感がある。シャープ系の始まりでありながら、フラット系に移行し、数小節が終わるとまた再びシャープ系の別のキーに変わり、そして、そして・・・と、最後まで容赦しない記号群。
 この緊張感の美は、隠し味であるし、ただ聴いている人には、その転調のあっという間の瞬間のことは夢心地に過ぎ、巻き込まれるだろう。だが、演奏者側からすると・・・わざと神懸かりな弾き辛さを要求していないか?・・・という疑問を持ちたくなるようなイヤラシさ(微笑)・・・しかし、ここで創作者の奴隷となる演奏者は、鉛の珠を引きづりながら耐えるのである。
 それはいつしか、快感になる場合もある。
 その作曲家はピアソラである。
 いや、重ねられた譜面の作者は、ピアソラだけではないのだが、アルゼンチンの作曲家の中に視る恐るべし楽曲表現能力、作曲能力に、私は時々、「人類への仇」や、「美への容赦ない誇り」を感じる。コンティネンタルと呼ばれたりした分類のタンゴ種とは全くベクトルの違う、芸術美、耽美、PASSION、臍曲り・・・鬱屈か、憂鬱か、卑屈かと思いたくなるような底の底にある野生を、西洋の極めて合理的であり、設計図正しく組み立てられた譜面の向こうを張って表現してみせる強さ。
 そう、強さの美。

 その強さの美を表現するなら、強い修行もあるだろう。

 つい目の前に譜面があるおかげで、私もチビチビ遣りながら、逆さまに見える譜面を覗いていると、心の中に鬱血している血が騒ぐ。
 が、言っておけば、私は決して転調の多い作品が優等だなどと評価しているわけではない。それは単なるスタイルであるし、散文的な音楽とも言える。
 そういう私も転調する曲を書くし、それが好きだ。が、私の場合は、必ず、元のキーに戻るという、西洋的な取りざたをする。どこかへ行ったまま、戻らないというのも、締まりがないようで。何事も治まることが理想なのだわ。
 これでも、Risaは割と従順であり、ストイックなのである。文章を綴っていても、最後にはオチが欲しいし、サイズか限られていると、あえて少ない現象を追う。「枠」・・・というか、「檻」を無視すれば、乱暴な開放もいい。が、デタラメはいけない。
 そして、私がイケナイと思うのは、稚拙さ、更に言えば、歓迎だけが望みの愛想笑いの窓口である。

 音楽とは、実はとても頭脳労働の部分がある。
 これは、譜面というものがあると考えると、文章を綴るエネルギーにも似ていて、音符も文字も記号と分類すると、その記号をどのように見せるか、表現するかであり、文章は目に映るものを知らない相手に想像させる労があり、音楽は耳に聴こえる音を記号を持って如何に視えるものとして表現するか、その確かさを伝えるわけである。
 しかし、そこに、大いなる幻と、作者の宇宙的な創造力、そして、楽しさや気持ちよさなんていうものだけで語りきれない、深き人間の情緒が、人間の「生」が、浮き彫りになる。
 囚われの身である者、そういう言い方は先進諸国では今や死後となっているかも知れないが、よく自分の生活、人生を見つめてみると、そこに本当の、本来の人間の生き様があると断言することのできる人は、少ないかもしれない。言わせてもらえば、私は、人生が全て美しく楽しいなどと思ったことは、子供の頃から無いかもしれない、それでも、こうして生きている人生である。
 誤摩化している必要もないので、白状すれば、しょっちゅう、辛いし、年をとる程、悲しいことも増える。
 増えるが、それを抱えて生きていくしかなく、私はブエノスアイレスの住人ではないが、「春夏秋冬」があるここ日本で、あくせくするのである。

 何だか、真夜中になってから、鏡を見るような気分で、お酒を呑みながら自らをお互い反芻しているこの部屋の人間たちであった。

 今日は朝こそ、ハムと野菜のサンドウィッチを食べたが、お夕食、お肉をいただかなかった私だった・・・やはり、エネルギー、足りなかったか・・・情熱と躯で生きるためには。

 ♯4つの魔に、感謝かしらね。