- 私のマルジナリア -








 昨日はとても美しい文章を読んだ。私はその本のそれが書かれているページにティッシュをそっと挟んで眠った。書物のページに線を引く事は私の主義ではないからだ。その代わりに、私は自分のノートに自分の言葉やメモ、惹かれた文章のあれこれを書き込む事にしている。


 そうすると、自分の文字が確かめられる。
 コンピュータを開いていると、そのテキストエディットについ打ち込んでしまう文章も、ノートに記すと、それを綴った時の自分の心境も一緒に浮かんでくるというものだ。


 紙に書いた文章とは、後で見ると、それがメモであっても、自らの肉筆が示してくれる何らかのサインがある。…ああ、この時、急いでいた。この時私は、丁寧に考えていた…そんな状況を思い出させながら、それは私をある点に戻す役割をはたしてくれる。


 この家には本もレコードもDCも、どっさり在る。私たちはそれらを奇麗に整えながら管理したいと思っているが、喫煙者が存在する以上、背が変色していく。私は私の瞳の色同様、茶は好きだが、煙で変色するのは背だけでいい。中身は生がいつまでも存続される事を望む。


 背は年月を想わせはしても、宅の貯蔵物の中身はなかなか奇麗に保たれている。実際、日夜、古いレコードたちを研くことに専念している者もここには居て、その人はレコードのみならず、楽器を塗装する事にも最近専念していて宅の中が常に何かの香りがしている。


 そのような日々であるが、元日からの感冒がなかなか私から去らず、それでユーカリオイルなど鼻にスッとさせながらの鬼の道行き…いや、Lesley Ann Ivoryのトレイの上に小世界を置くつもりはないが、この黒い猫の視線がいつもこちらを観ていると感じると、私は自分の小さなコスモスに監禁されていると知る。


 時に監視されている意識というのは大事で、私のようなフーテンは、実に<確かな目>にじっと見つめられる事で、姿勢を正すわけだ。
 このトレイはこの宅を購入した時に買ったものの一つではあるが、私はこの猫の視線からはみ出そうとする。
 そうして感じるのは、私の世界がこの猫の額くらいの面積だと気づいた瞬間、合わせた鏡に映る私の眉間が渋るのだ。


 昨日の、軽やかなティッシュペイパーによって挟まれた文章を糧に、今日の私は私の管理を努力するこの世の片隅のウツケモノだ。
 そうして今日も朝から何も口にせず過ごしたが、今は夕、断食の後には林檎が欲しくなったが、林檎がないので、梅干しを口に含ませてみた。




 全てを自然のままに保つ事は、それを管理するより、ずっと難しい。




 picは私の今年のダイアリー/手帳、ムーミンの表紙です。すでに雑多な書き込みが増えているこのノート、我が無駄を嗤うはともかく、しかし、佳きものは留め、流してすむものはここには表されないだろう。




 桜井李早